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決意表明

09.09.20 大きくなる頃には



 科学の方則や事実の表現はこれを言い表わす国語や方程式の形のいかんを問わぬ。しかし芸術は事物その物よりはこれを表現する方法にあるとも言わば言われぬ事はあるまい。しかしこれもそう簡単ではない。なるほど科学の方則を日本語で訳しても英語で現わしても、それは問題にならぬが、しかし方則自身が自然現象の一種の言い表わし方であって事実その物ではない。ただ言い表わすべき事がらが比較的簡単であるために、表わし方が多様でないばかりで必ずしもただ一つではない。芸術の表現しようとするは、写してある事物自身ではなくてそれによって表わさるべき「ある物」であろう、ただそのある物を表わすべき手段が一様でない、国語が一定しない。しかししいて言えば、一つの芸術品はある言葉で表わした一つの「事実」の表現であるとも言われぬ事はない。
 しからば植物学者の描いた草木の写生図や、地理学者の描いた風景のスケッチは芸術品と言われうるかというに、それはもちろん違ったものである。なぜとならば事実の表現は必ずしも芸術ではない。絵を描く人の表わそうとする対象が違うからである。科学者の描写は草木山河に関したある事実の一部分であるが、芸術家の描こうとするものはもっと複雑な「ある物」の一面であって草木山河はこれを表わす言葉である。しかしそのある物は作家だけの主観に存するものでなくてある程度までは他人にも普遍的に存する物でなければ、鑑賞の目的物としてのいわゆる芸術は成立せず、従ってこれの批評などという事も無意味なものとなるに相違ない。このある物をしいて言語や文学で表わそうとしても無理な事であろうと思うが、自分はただひそかにこの「ある物」が科学者のいわゆる「事実」と称し「方則」と称するものと相去る事遠からぬものであろうと信じている。

科学者と芸術家(寺田寅彦:著)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/1108_13798.html
より、抜粋


最近、人間が希薄だと感じる。
昔がどうだったかは知らない。
だから、近頃の現象なのか、これからどうなるかもわからない。
ただ、人間が希薄だと感じる。
根拠などない。
そんな感情に根拠で骨組みをつけたところで、
その骨自体が主観の塊であるがゆえに、
現代の客観論を重視する風潮の前ではもろくも崩壊するにちがいない。
だが、このようにも感じる。
人間は、もっと豊かになれる。
科学技術が進展し、人間の生活は便利になった。これは間違いない。
それでいいのか?人間。
便利さではなく豊かさを求めて、日々努力を重ねているのではないのか?
毎日仕事をして、お金を稼いで、そのカネで便利さに投資をする。
生活が一向に豊かにならない。
昔に比べて人間が希薄になったのだとすれば、
この悪循環に疲れた
というのが理由のひとつではないだろうか。
今こそ、便利さに投資する時代から、
豊かさにお金をかける時代なのではないか。

人間における豊かさとは何か。
それは、ひとえに想像力の深さに尽きる。
本を読んで、登場人物の感情を推察する。
音楽を聴いて、作曲者や演奏者が作り出した世界に浸る。
絵画を見て、画家の生み出した拡張されし現実を受け止める。
そして、写真を見て、写真家が感じた風を体感する。
これらはすべて、芸術家の爆発するようなメッセージを受容しようとする動きだ。
芸術家は、言語という情報量の少ない媒体では表現しきれない魂の叫びを、
自分の感性がもっとも鋭く発揮される表現方法で世の中に提示する。
世界よ、変われ。人間よ、こうであれ。と。
人間は、自分の器では計り知れない量のメッセージを受容することで深く感動し、豊かになる。
器が小さい人間は受容する前にそれを溢れさせてしまうので、その趣旨がわからない。
豊かになるには、深い想像力という名の器が必要なのだ。
器を深くするには、たとえ受容できなくとも、メッセージを受け止めようとする行動が重要だ。
本を読む。
音楽を聴く。
絵画や写真を鑑賞する。
人間が豊かになるためには、芸術作品に触れることが、絶対条件である。
芸術作品に触れて、豊かな人生を送ろう。

さて。
芸術作品としての鉄道写真の立ち位置はどうだろうか。
鉄道写真にも様々な種類があるが、鉄道に関係するものが写った写真のことを、
広義では鉄道写真と呼ぶのだろう。
鉄道は、鉄の線路と鉄の車輪のうえに車体を載せた乗り物。
毎日、数え切れないほど多くの列車が目的地へと走っていく。
同じ線路の上を。
乗客の数だけ思いをのせて。
さらに、鉄道は日本の風土にこれ以上ないほど溶け込んでいる。
日本の四季を、想像してもしきれないほど数多くの思いが駆け抜けてゆくのだ。
これほど情報量の多い芸術が他にあるだろうか。
だが、社会の眼は厳しい。
鉄道ファンの美しくない行動がマスコミに大きく取り上げられるようになり、
社会の視線は冷ややかになった。
鉄道好きの間では価値のある写真でも、輪の外に少しでも出れば、こうなる。
また電車か。と。
もはや、鉄道写真は内輪の芸術と化してしまったのだ。
本当にそれでいいのか?
情報量の多い芸術は、人の心を感動させ、人間を豊かにするはずだ。
ましてや、人の思いが入り混じる鉄道の写真。
その写真から人の思いを想像することは、確実に人間の器を広げるし、
それ以前に、現代の冷え込んだ社会に必要なことではないのか。
鉄道写真を広く社会に認知させることができれば、
確実に社会は豊かになる。
だから私は鉄道を撮る。
そして、撮り続ける。
一生。


2013年10月5日 大橋史明(湖西人Σ)

以上は、2013年10月現在高校3年生の湖西人Σが主観に基づいて著したものです。
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